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「パリっ子かぶれ」になりたい

「ふらんすへ行きたしと思えども、ふらんすはあまりに通し」(萩原朔太郎)

萩原朔太郎のみならず、明治の文豪や画家で当時のフランスの影響を受けなかった人はいなかったのではないだろうか。みな「フランスかぶれ」であった。朔太郎と同じ1886年(明治19年)生まれの藤田嗣治(レオナール・フジタ)もその一人だが、彼はカトリックの洗礼を受け日本の国籍を抹消して、戦後日本へ帰ることはなかった。

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3年ほど前にお買い取りをしたレオナール藤田のリトグラフ

かの「ふらんす」から西欧文化や芸術の洗礼を受けた日本人としては、あの同時多発襲撃事件は遠い出来事には思えない。痛ましいことである。その痛ましさを増幅させていくだけなのに,報復がいとも簡単に決定され実行される。今度はイスラム圏に住む無辜の人々がまた空爆による犠牲になっていく。
フランス国内では地方選で極右政党FNが躍進したとのニュースである。あの襲撃事件による排他的なムードが移民排斥を主張する党の支持率を上げたのだろう。

そんな暗いニュースがあふれる中で、小さいけれども記憶に留めたい二つの報道があった。

一つはこの無差別襲撃で妻を失ったフランス人ジャーナリストのアントワーヌ・レリスさん(34)のフェースブックでのコメントである。

「君たちを憎むことはない」

金曜日の夜。君たちは特別な人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だ。だが私は君たちを恨まない。私は君たちが誰であるかを知らないし、知りたくもない。君たちは死した魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺りくをした。もしその神が、自分に似せて私たちをつくったとすれば、私の妻の体に撃ち込まれた弾丸の一つ一つが、彼の心の傷になっただろう。

私は君たちに憎しみの贈り物をあげない。君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が恐れ、周囲に疑いの目を向けるのを望んでいるのだろう。安全のために自由を犠牲にすることを望んでいるのだろう。それなら、君たちの負けだ。私はこれまでと変わらない。

私は今朝、妻と再会した。幾日も幾夜も待ち続けてやっと会えた。彼女は金曜日の夜、出かけた時のままだった。私が12年以上前、激しい恋に落ちた日と同じように美しかった。もちろん私は悲しみにうちひしがれている。君たちの小さな勝利を認めよう。だが、それも長くは続かない。

妻はこれからも、いつも私のそばにいて、私たちは、君たちが決して近づくことができない自由な魂の天国で一緒になる。私は息子と二人になった。だが私たちは世界の全ての軍隊よりも強い。

君たちにかまっている時間はもうない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければならない。まだ1歳と5カ月になったばかりの彼は、いつもと同じようにおやつを食べ、私たちはいつもと同じように遊ぶ。この子の生涯が幸せで自由であることが、君たちを辱めるだろう。君たちには彼の恨みですら、あげることはない。

(毎日新聞電子版より引用)

もう一つのほっとするニュース。高橋源一郎さんによれば、今のパリでのベストセラーが憎しみより友愛を説いたボルテールの「寛容(トレランス)論」だとのこと。(トレランスの語源は耐える、我慢するという意らしい。寛容という言葉も明治時代に翻訳されて使われるようになった)カトリックによるプロテスタントへの差別、弾圧、虐殺が横行した宗教戦争を経た18世紀に書かれた本である。

そのような本が襲撃事件からまだ1ヶ月のパリで読まれているのである。排他的な方向に傾いている「ふらんす」にも、自分たちの先達や歴史から学ぼうとする冷静なパリっ子がいるのだ。

アメリカでは「メキシコ国境に万里の長城をつくれ。すべてのイスラム教徒のアメリカ入国拒否」とのたまうトランプとかいう大統領候補が共和党の支持率トップを走っているというのに!

しかし、他者やマイノリティを認めない、許さないという「内向きで攻撃的」な空気は日本のみならず世界中で広まっている。その流れは目に見えるところだけではなく、ごく普通の生活のなかにも忍び寄っている。

マンションの一室を賃貸に出している友人が、今度賃貸契約書を新しくしたので印鑑が欲しいと不動産会社が送ってきた文書が「気持ち悪い」と見せてくれた。

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反社会的勢力とはどのようなことを意味しているのかわからない。しかも、「風説を流布し・・・・その他前各号に準ずる者」と言われれば、相手がそう思えば誰でも該当するような曖昧な表現である。「イスラム教の人、原発や安保関連法反対のデモをしている人」に適用しようと思えばできるような内容である。私もこんなブログを書いていると「反社会的な勢力に準じる者」と言われかねない。

何の問題もなく使われていた契約書がいつの間にか、違反項目が増えて変更されていく。今まで味わったことのない気持ち悪さ。このような契約更改を官公庁が指導しているのか、住宅業界が国の意向を忖度しているのかはわからないが、息苦しい。(あとで、銀行も同じ内容の契約書に変更していることがわかった)

戦争を知らない私には「戦後民主主義」は蛇口をひねれば出てくる水のようなものだった。その素晴らしさを当然のこととし享受し、高度成長、バブルを経て、デフレを経験し、この薄暗い現実に生きている。30年後に「戦後100年」と明るく言える時代を築いていけるかどうか。

今や、「憲法」も「戦後民主主義」も音を立てて崩れているようにみえる。ごく当たり前のこととして、大事にしてこなかった自分を恥じるばかりである。

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