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三代目徳田八十吉氏にお会いして

九谷村の徳田八十吉工房は細長い陣屋風の作りで、時代を急にさかのぼったように思われる佇まいだった。入るとすぐ展示室があり、耀彩の大皿や壷がきらきら光っていて思わず一同が「キレイ」と唱和してしまった。

奥の部屋から現れた徳田氏は昭和8年生まれの73歳とは思われないほど溌剌としていた。展示室で徳田氏を囲んで話を聞いた。

まず、戦国時代から話ははじまる。

豊臣方であった前田藩の二万数千基の兵隊がこの前の道を通って、徳川方に加勢すべく関が原に向かった。1600年のことである。それぞれの兵隊は刀や槍だけでなく、鉄砲を手にしていた。この鉄砲の技術が、後の加賀藩の文化になっていくのである。

徳川時代、加賀藩は百二十万石という徳川に次ぐ巨大な藩となった。(その当時幕府は六百四十万石と言われている)幕府の警戒心を解くために、武器を捨て、その技術を飾り物や細工物に生かし工芸を発展させた。その供給の受け皿として、武士のみならず町人に茶道を勧め、幅広い文化の基礎をつくっていくこととなった。

もう一方で、徳川との姻戚関係を結び藩の安泰を図った。それが現在の陶磁器、漆器、金箔加工、着物の染色などの多様な工芸品の発展の土台となったのである。

そして、初代八十吉のことに話は及ぶ。

初代は古九谷焼の再現に尽力した陶工で職人から作家へと作品を昇華させた人である。九谷五彩の色の調合は生涯秘密で、孫の三代目に暗号で引き継がれた。三代目(正彦)は「まちゃん」と呼ばれて可愛がられたが、若気の至りで陶工への道は紆余曲折したらしい。

「今はこんな体つきだけど、昔はダンスの先生をやっていたんだ」と笑う。日本伝統工芸展で落選した灰皿を「まちゃん、これを三千円(当時の初任給は一万円くらいか)で買いたい人がいる」といわれ、喜んで売った。もらったお金を三日で使ってしまった。初代亡き後、近くの店で埃だけのその作品を見つけ、これは自分の作ったものではないかと怪訝に思い、店主に経緯を聞くと、先代が「これはおじじが持ってきて、まちゃんが作ったと言って置いていった」

そのとき初めて初代がお金を出してくれたと分かったという。初代はじっと孫の仕事を見守り、無言の教育をしてきてくれたのである。昭和28年、人間国宝の内定を受けながら、受賞の直前に他界された不出世の作家であった。三代目は初代八十吉のことを「無冠の太夫」と呼ぶ。

さらにご自分の作品について

氏は金沢の工芸大を卒業後、初代の九谷焼を引き継ぎながら、自分の作風を確立すべく、試行錯誤の作陶を続け、日展へ出品するも、落選が続いたという。その頃から、美術の世界は抽象化が流行り、陶芸界も形の抽象化、文様の抽象化と様々な作品が作られた。

その時、氏は「色の抽象化」ということに挑戦したという。昭和四十六年、再度日展へ出品した。その際、アラビア文様の器と彩釉の器の二つが入選した。だが、一つしか発表できないとのこと。迷った氏は、田村耕一先生に相談し、「彩釉鉢」にしたという。

(先生の一言は責任重大である、今はいい加減に弟子に意見する人がいるが、ちょっとした一言がその人生を決めてしまうことがあると、先生連中にはよく言うのだそうだ)

その「彩釉鉢」が認められ優秀賞、NHK会長賞を受賞するのである。それが平成九年の重要無形文化財資格保持者(人間国宝)に認定されることへつながったということである。

青を基調にきらきら輝く作品をよく見てみると、あの古九谷の黄色や紫や緑が微妙に浮き上がり、初代の秘匿の釉薬の調合が生かされていると思うのです。

「人間国宝」にお会いできたという嘘のような本当の出来事が、いつまでも私たちの脳裏にきらきら輝いて、帰途のバスの中はみんなうっとりしていました。

(文責NB)

20070416-1

20070416-2

『特別展 没後50年 初代徳田八十吉古九谷・吉田屋の再現にかけた生涯』にサインしていただいたものです

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